第1回wikipediaランダム記事翻訳チャレンジ(ゼンパッハの盟約)

そういえばブログ作ってたので適当に更新します

wikipediaランダム記事翻訳チャレンジ

とは:wikipediaのランダムな記事に飛べる機能を利用して適当に飛んだ記事を貧弱な語学力で翻訳する挑戦。たぶん記事の途中でめげる。

とりあえず読める言語が英仏(中国語の文章を漢字だけ拾って読んでいるのはなんか違う)だけなのでフランス語版から

Convenant de Sempach — Wikipédia

ゼンパッハの盟約

ゼンパッハの盟約(Sempacherbrief)とは1393年7月10日に八州連合に加盟した全カントンの間で結ばれた条約である。

ゼンパッハの盟約前のスイス

 ゼンパッハの戦い、ネーフェルスの戦いで敗北したにもかかわらず、ハプスブルグ朝オーストリアは諦めず、1393年には、バーゼルやストラスブールなどの都市と同盟を結び支配力を取り戻そうと試みた。親ハプスブルグであったチューリッヒ市長ルドルフ・シューノもまたこの反八州連合的な同盟を7月4日に結んだ。その内容は、八州連合とオーストリアの間に衝突のあったときは中立の立場をとる、というものだ。このチューリッヒとハプスブルグ家の友好関係樹立という危機に際し、シュヴィーツとルツェルンは市長の支配から逃れ、チューリッヒの支援の下、連合に向けた方針を取るようにした。しかしこのことは連合を結んでも将来のオーストリアとの衝突を避けえないこととそのために今ある結びつきをより強くする必要があることを示していた。これがゼンパッハの盟約が結ばれた理由である。

ゼンパッハの盟約(1393)

 目覚ましい勝利から7年後、八州連合に参加したカントンはゼンパッハに集まった。7月10日、ウーリ、シューヴィッツ、ウンターヴァルデン、ルツェルン、チューリッヒ、ツーク、グラールス、ベルンはゼンパッハの盟約に調印した。ベルンは坊主協定には直接調印していないため、これが八州すべてが一つの書類に調印したはじめてのことであり、つまり八州連合が公的に発足したのである。今までの戦いでベルンのよき同盟者として連合を助けたゾロトゥルンもこの条約に調印した。

 この盟約は先の二つの戦いにおいて兵の無秩序・不服従や略奪を受けて結ばれた。軍事力の使い方を共通のものにすることで、連合はある種の共通法を以って連合の結束を固めようとした。この盟約には婦女を保護する条項も含んでいたため"婦人協定"とも呼ばれた。

盟約の本文

[省略。力尽きました。]

分析と展望

[いつかやる]

 

 

感想…語学力と知識が足りないのを実感した><